構え!構え!構え!!

暖かい日差しが降り注ぎ、爽やかな風が吹き抜ける。湖の畔は静かに時が流れ、気持ちのいい午後の陽気。
ラガッツォはぽかぽかとした陽の光を浴びながら、くあぁと一つ欠伸をし目元に浮かんだ涙を二の腕のあたりで擦り拭う。船着き場から湖へと投げた二本の竿の先から垂れた糸は、穏やかな水面に針先を落とし浮きとなった軽石がふよふよと水に揺蕩っている。

「おもしれェかァ?」
「まぁなぁ」

短く答えたのは、ラガッツォの隣で背もたれ代わりになって胡坐をかき、ぼんやりと竿を握るランドルだ。
しばらくの間この場所で釣りを続けているが、魚らしきものは一匹も引っかからない。水を張ったバケツには、虚しくも落ち葉が一つ浮かんでいる。

今日はフェザーが団長たちと依頼を受けて艇におらず、フィオリトもマナマルやコルルと街に出掛けると言って不在だった。
スキあらば手合わせを申し出てくるランドルの幼馴染も、筋トレに誘うラガッツォの元同僚も不在となれば、ふたりポツンと取り残され暇を持て余すことになる。
たまにはそんな静かな日もいいだろうと、ランドルは近くの湖に釣り竿を持って出掛けることにしたのだが、準備をしている最中にラガッツォにも声をかければ本を一冊片手についてきた。
念の為釣り竿を二本持ち出したものの、ご覧の通り未だボウズだ。
初めのうちはラガッツォもランドルの隣に座り竿を握っていたが、あまりの変化のなさに竿を船着き場に開いていた穴へと挿し、持ってきていた本を読み始めていた。
とくに二人の間に会話はなく、静かで穏やかな時間だけが流れている。風が吹き木々が優しく囁く音、小鳥がさえずる声、ラガッツォが本を捲る紙の音。耳に届くのはそれくらいなもの。ランドルはただただぼんやり水面を眺める。
その中で聞こえたのが先ほどの問いで、それに一言答えればまた風と小鳥と紙の音だけの世界に戻る。湖と緑と土の匂い。五感いっぱいに自然を感じとるだけだった。

――平和……。

風に撫でられ細かく波打つ水面をぼんやりと眺め、自分を背もたれ代わりにする男の重みを左側に感じながら、静穏の中で無になる時間。釣りは魚が釣れないことも当然あるが、無になる時間は嫌いではない。
日々の反省や、悶々とした考えを一人まとめる時もある。自分と向き合うにはもってこいの趣味の一つだ。魚が釣れればそれはそれで当然達成感が得られることもあるが、ランドルにとって釣りをする時間は一人を満喫するための時間でもあった。
それなのに今日ラガッツォを誘ってしまったのは何故なのか。わからなかったが、別にそこにいて騒ぐわけでも邪魔をするわけでもない。あわよくば釣り好きになってくれればなんて思ったものの、どうやら興味は湧かなかったらしい。それならそれで帰るかとも思ったが、持ってきた本を読んでそれなりに野外を満喫しているようだった。
持ってきた本を読み終わったのか、ぱたりとそれを閉じると両腕を前へ突き出し、伸びをした。続いて凝り固まったのか首を左右にコキコキと鳴らし、ふぅと一息吐き出す。

「暇だな」
「あぁ、そうだな」

水面の動きを見張って、竿を握る指先への僅かな振動も見落とさないようにしてはいても、それ以外することはない。暇という言葉があっているかはわからないが、暇かと聞かれれば見張る以外は確かに暇だ。

「帰るか?」
「いや、お前まだいるんだろ?」
「そうだな」

持っていた本を置き、ラガッツォはもう一度腕を伸ばす。続いて肩を回し自らの竿を一見すると、変化のないそれにハァ~と深めのため息を吐いた。

「ここ魚なんていんのかァ?」
「さぁ、どうだろうな」
「わかんねェのかよ」
「初めてきたからな。まあでも水辺なんだし、毒でもなけりゃ魚の一匹くらいはいるだろ。小魚を餌にするような鳥も一応飛んではいるし」

よっと一度糸を引き上げてみたが、ふやけた虫がついたままだった。まったく食いつかれた形跡もなく、魚なんていないのかもしれないという考えが浮かぶのもわからなくはない。うげ、と声を上げるラガッツォにむけて少し糸を振れば、辞めろと腕を強くおされた。
そんなやり取りも楽しいものだと思いながら、もう一度釣り糸を湖へと投げ込む。

「釣りなんてそんなもんだよ。のんびりやるのがいい」
「そーかよ」

ふあぁとまた一つ欠伸をし、ラガッツォは空を見上げる。突き抜けるような蒼い空はどこまでも広がり、見上げた空へ向かって落ちてしまいそうな感覚に陥るほどだ。

「あー……うぜェくらいに天気いいな」
「真夏だったらやばいくらいにな」

秋風が抜ける気候になり、焼けるような太陽の日差しは今はない。それでもこれだけ晴れ渡れば少し暑さは感じるものの、日除けなしでも外にいられるくらいには気温は落ち着いていた。
そよそよと湖側から吹き抜ける風はほんのり冷たく頬を撫でる。またそうして時は過ぎていく。穏やかでのんびりと優しく進む時間は、自然の中だからなのだろうか。
会話は途切れ、ランドルは再び湖の中に投げ込まれている軽石を眺めていると、くい、と髪を引っ張られた。

「なんだ」
「いや……」

ちらりと横目で髪を引かれた方向を見れば、ポニーテールに束ねた髪の毛から少量をとり、義手の指先でちまちまと三つ編みを作っている様子が確認できた。
指に絡まないように髪を梳かしながら、するりするりと編み上げていく。

「三つ編みできるのか」
「これくらいはなァ」

思いのほか楽しんでいるような声色が返ってきたため、好きにさせるかと前へと向き直った。
くい、くい、とたまに引っ張られはするが、完成した三つ編みはランドルの脇の下へと挟まれ解けないようにと固定され、どんどんと溜まっていく。
全て三つ編みし終わると、今度はそれらを纏めて頭頂部にぐるぐると巻き付け始めた。

「いって」
「あ、わりィ」

突然頭部にツンとした痛みを感じ声を発したが、あまり悪びれる様子もなくラガッツォはその痛みの元をぐいぐいと髪の間に差し込んでいく。
ぱっと離されたかと思えば、頭の上にそれなりの重み。どうやらたくさんの三つ編みをさらにまるめて、ポニーテールをまとめた部分で団子状にしたものを、その辺に落ちていた枯れ枝を差し込み止めたらしい。

「満足か?」
「別に」

人の頭を好き勝手しておいて別にとはなんなんだと思いながら、多少重く感じるようになった首を回し、再び湖の中に浮く軽石を眺める。
それはまだ、何も変化がない。
暇を持て余したラガッツォは、一通りランドルの髪を弄り倒し終わってしまい、どうしたものかと湖の方へ足を投げ出し座りなおした。
しばらくそのまま水面に揺蕩う軽石二つを眺めていたが、それでも暇なものは暇なようで再びくありと欠伸をする。

「おい、ちょっと腕あげろ」
「あ?」

言われるがまま竿を握った両腕を胸元あたりまで持ち上げると、ごろりとラガッツォの頭がランドルの足元へと転がり込んだ。

「寝るわ」
「人の足勝手に使うじゃねーよ」
「何か引っかかったら起こせ」
「聞けよ」

抗議したところで、ラガッツォは目を瞑り返答をよこさない。寝ると決め込んだようで腕を組んで目を瞑ったまま、足を揺すってみても瞼は瞳を隠したままだ。
仕方ないとランドルは右側の太ももに片腕をのせ、竿を握った。変わらず、糸を引く気配はない。
再びそこには静寂の時間が訪れる。陽は傾き始め、ちょうど正面に沈みゆく太陽が落ちてきていた。明かりになるものを用意してきてはおらず、陽が完全に落ちきる前には切り上げないとなと考えながら、吹き抜ける風を浴びて目を瞑る。
こんなにのんびりとした時間を過ごすのはいつぶりだろうか。なんだかんだと艇での仕事を請け負えば、日々は忙しく過ぎていく。
増えていく仲間、変わる環境、成長していく友。艇にいれば目まぐるしいほど早く時は過ぎ去っていく。
今湖の畔で過ごすこの時間はゆったりと流れていくようで、いろいろなことを考えられた気がした。
気持ちの整理でデトックスをし、もやつく胸中を少しだけ整理できたようだ。

「釣れねぇなぁ」

ぽつりと呟くと足元からの視線を感じとる。ふいと顔を下にむければ、目を開けてじっとランドルの顔を見るラガッツォと視線が重なった。

「起きたか」
「寝心地が悪ィ」
「勝手に枕にしといて文句かよ」

おら、起きろと足を揺らしても、ラガッツォは起き上がる様子はなく、グラグラと揺らされる頭をそのままに口を開く。

「もうそろそろいいだろ」
「何がだ?」
「そろそろ構えって。暇すぎて死ぬ」

両腕をランドルの顔の方へと伸ばし、随分と可愛いことを言ってのけた。ふは、と思わずランドルが噴き出すと、笑ってんなと怒られてしまった。

「なんだよ、構って欲しいならそう言えばいいだろ」
「分かれよ。暇すぎるわ」

ついてきたのはラガッツォの意思だが想像してた以上に暇に感じたらしく、それならそれは悪いことをしたなとランドルはやっと釣り竿を地面へ置いた。

「じゃあ寂しがり屋のラガッツォくんのこと、構ってやるか」
「最初からそうしろ」
「口悪ぃなほんと」

ランドルは背中を丸め、ラガッツォへ向けて唇を落とす。前髪がさらりと流れ、ラガッツォの喉元を擽った。ふにゃりと触れた唇は乾燥して少しかさついている。
ラガッツォは身体を起こし、ランドルの膝の上にまたがり乗り上げた。ランドルは腕をラガッツォの腰に、ラガッツォは腕のランドルの肩へと回す。

「したかったなら自分からすればいいだろ」
「したいなんて言ってねェわ」
「したいって言えれば、もっとするのに?」
「……お前って性格悪いよな」

鼻先が触れ合うほどの距離で小言を言いあい、どちらともなく触れる唇。風に冷やされていたそこは、重なればすぐに熱を巡らせる。
風が吹き木々が優しく囁く音、小鳥がさえずる声、そして二人にしか届かない吐息だけを感じ合う。
結局魚なんて一匹も釣れないまま、陽が傾き落ちていくまで互いに熱を渡しあった。