境界線なんていらない

手のひらでそっとその背中に触れる。
触れた、という感触はわかるのにその背が持つ温度は、機械仕掛けのニセモノでは感じとることができない。
触れているのに、触れられていない。
その距離が少し、もどかしい。

雨が降る夜は、古傷が痛むなんていうのは老人の戯言だと思っていた。
事実、自らの身体に残る傷跡は、雨が落ちる日にずくずくと疼くように痛むことがある。
体調によるのか、気温のせいか。タイミングはわからないが、そんな日は部屋にこもる事が多い。
何をしていてもその痛みが気になって仕方がなく、何にも集中することができない。好きな本を読むこともままならず、寝て痛みを紛らわす以外の方法を知らなかった。
今日は雨が落ち始める前から、悪い予感がしていた。切断された両腕に早い時間から違和感を感じ、食堂で昼食をとった後雨が降りはじめると、重だるくなった身体を引きずるようにして自室に引っ込んだ。
多少無理をすれば動けないこともないが、特に用があるわけでもないし頼まれていることもない。そんな時は一人でいた方が気楽に過ごせる。自分一人見かけないくらいでは、この巨大な騎空艇内では何の問題もない。
けれどもいつ何があるかわからないのが騎空団だ。
明るい時間のうちはなるべくいつ何があってもいいように、すぐ動き出せる体制は整えていたかった。
まだまだこの艇では新人であるラガッツォは、自室のベッドに義手を外さず寝ころんだ。

――いてェ。

両腕を失ったのは、騎空団に所属する今の仲間たちと戦い、自分の命を懸けて足止めをしたときのこと。自らが適合した占星武器(ホロスコープ)とともに、父親のように慕った男――フェルディナンドの手ずから切り落とされたからだ。
そんなひどいことをされてまで何を義理立てるのかという人もいるが、それでもラガッツォにとってその男は幼少の自分が欲しくて欲しくてたまらなかった手のひらの温もりを教えてくれた唯一の人。実の親からの愛は何も知らない。その男だけが、求めた愛を与えてくれたから。その男の役に立てるのなら、両腕くらいくれてやっても構わなかった。
失った腕に今は、この騎空団のメカニックやエンジニアたちが作ってくれた高性能な義手が装着されている。
いくら高性能であっても、接続部分を撫でるように指先で触れても、本物の手で撫で労わるようなことはできない。
触れるのは金属で出来た指先。血の通わないひんやりとしたそれは、自分の一部でありながら自分の一部にはなりきれない。ぎゅっと身を寄せるように握りこみ、なんとか痛みを紛らわせるのがやっとだった。
コンコンコン。
部屋の扉を叩く音に、のそりと身体を起こした。何か急な依頼でも舞い込んだのかもしれないと、立ち上がり扉を開ければ、そこに立っていたのはランドルだった。

「調子どうだ?」
「いてェよ」
「だろうな」

邪魔する、と部屋の中に入り込み、義手を持ち上げベッドまでと誘導された。騎空団内では数少ないこの痛みのことを話しているうちの一人だ。

「ティコんとこ行って痛み止め貰ってきた。ほれ」

小さな紙に包まれた粉薬をあけ、一緒に持ってきていたコップを手渡される。別に頼んだ覚えはなかったが、この天気から察したのか気遣われてしまった。

「さんきゅーな」

素直に粉薬を受け取り口の中へ落とし、受け取ったコップの中にある体温ほどのぬるま湯でそれを喉の奥へと流し込んだ。
良薬口に苦しとは言うが、何度飲んでも慣れない苦味に思わず眉間に皺が寄る。

「えらいえらい」
「ガキ扱いすんじゃねェよ」

それから薬が効くまでの間、他愛もない世間話を繰り返す。中身なんてあるようでなくて、ただ気を紛らわすだけのもの。寝て薬が効くのを待つ方が痛みを感じずに済むが、痛みが止むとわかっているのであればその痛みを感じるのも別に嫌いなわけではなかった。
その痛みはフェルディナンドが最後にラガッツォに残した愛の残骸。この痛みを感じ続ける限り、フェルディナンドから受けた恩が消えることはない。それを背負い生きることを決めたから、両腕の切断面からの痛みは、たとえ自分の枷になってもそれごと抱えると誓ったのだ。
それでもランドルは、痛みなんてあっていいもんでもないからと、その痛みを消し去るべくティコに痛み止めを貰い運んでくる。
消えることがないのは分かった上で、緩和されるならその方がいいからと聞かない。
ラガッツォも他人の善意を無下にしきることはできず、今ではすっかりそれを受け入れるようになってしまった。

「もっと着込めよ。冷やすのよくないってティコが言ってたぞ」
「これにひっかかるからいーんだよ、これで」

二の腕と義手を取り付ける部分はどうしても保護カバーやパーツでぼこぼことしてしまう。それも気に入ってはいるのだが、服を長袖にするのはその機能を制御してしまうことに繋がってしまう。
助けて貰い、拾ってもらった恩義を返すため、足手まといになるわけにはいかないからと、肌寒くなり始めた最近でも変わらず鍛えられた腕は晒されていた。

「暖ならガキどもから取るから気にすんな」

晒されている二の腕を、ランドルの背中にぴたりとつける。そこは洋服越しでも十分暖かい体温を感じとることができた。

「俺かよ」
「おーあったけェわ」

ぐっと体重をかけても、ランドルはびくともせずラガッツォの身体を背中で受け止める。
冷えていた腕はじわりじわりとその体温を奪い、触れたところからゆっくりと広がるように痛みも緩和されていく。

――体温、手のひらで感じることってもう出来ねェんだな。

ふと気づいた真実は、別に後ろ向きの考えではない。ただ、誰かの頭を撫でて、その暖かさを教えてやることは自分にはもうできないのだと、知っただけ。
試しにかちゃりと義手の手のひらで、そっとその背中に触れる。触れた感触は確かにあるのに、いくら待っても熱は感じとることができない。
そこに触れたのは、ニセモノの手のひらだから。機械の手では体温までの距離をゼロには出来ないのだ。機械と皮膚の境界線はどうしたって拭えない。

――こいつの体温、手のひらで感じてみたかった。

願っても無駄だから、自らの頬をその背中にぴとりと寄せる。暖かな体温も、肺が膨らむ動きも、とくんとくんと規則正しく鳴らす心臓の音も、自らの身体なら感じ取れるのに。
もう二度と、自分の手のひらからはそれを知ることはできない。それだけが、唯一の後悔。