騎空士にとって、古き戦場のある島に召集されることは特に珍しいことでもない。
その時々により七日間だけ眠りから覚める星晶獣は異なり、その星晶獣に合わせてこの騎空団からもいくらかの人員が派遣されていた。
今回は風をまとう騎空士が集められ、その中から団長であるグランが指名した十数名がその島へと向かった。
よほどのことがない限り途中で島を出ることはなく、七日間出ずっぱりで戦う者もいれば一回も戦場に立たない者もいる。
蘇る星晶獣が毎回違うからこそ戦い方が変わり、その場その場で作戦がかわるからだ。
戦場に立たないからと言って何もしないわけではなく、回復薬の準備や報酬品の管理、データの収集と解析など、やらなければいけないことは山ほどあった。
ピンク色の髪をポニーテールにした少年、ランドルも今回はこの戦場に連れてこられていた。
力試しにもってこいの場所であることに間違いはなかったが、結局三日間ほど戦場に立たせて貰えただけであとは裏方に回っている。
――まだまだだ……。俺はもっと強くならねぇと。
強敵と前線で戦う団員達の背中は、はるか遠くに見えた気がした。
この島に来てちょうど七日目。そろそろ今回の戦いもあといく戦かで終わりを迎えるであろう時間だ。
その頃になれば待機メンバーもある程度のルーティンが確立し、前線メンバーのサポート組と戦利品を帰りの艇に乗せたりと帰り支度をすすめる組とで分かれて働いていた。
明日になれば島の人々が開く祭りが開催され、慰労会のようなもので参加した騎空団が労われる。
慰労会を終わりまで楽しむ団もあれば、早々にその島を離れる団もあり、グラン率いるこの騎空団も慰労会を楽しんだ後早い時間に帰る時もあれば夜になってから帰るときもあった。
翌日以降の依頼の状況により、それは異なる。
そんな時間が近づくにつれじわりじわりとランドルの中で、グランサイファーに置いてきたはずの気持ちが染み出していた。
――強くならねぇとって、思ってんのに。なんなんだよ、これ。
戦いを続ける仲間たちを見ながら、明日になれば艇に帰ることを考えてしまったとたん、ここに発つ前の自分の言動を思い出して胸のざわつきをおさめられずにいた。
◇ ◇ ◇
つい数週間前、ランドルはフェザーと共に一つの要望をグランへと出した。
ナビスという組織の監査屋(アディター)として自分たちと敵対し、そして一人になってしまった少年――ラガッツォを仲間に迎え入れたいと。
おせっかいでしかないのはわかっていたが、父だと慕っていた男――フェルディナンドを自らの手で赤き地平へと落とし、フェルディナンドが率いたナビスからの決別を選択した以上、どこで命を狙われるかもわからない。
フェルディナンドによって腕を切り落とされた後、グランサイファーの一員であり医者でもあるティコの治療を受け、眠りから覚めないラガッツォはしばらくの間艇に乗っていた。
見舞いにも寝たままのラガッツォの世話をするために何度も通って、少しでも刺激になればと一方的にいろいろな話をしていた。
自分のこと。フェザーのこと。グランのこと。故郷のこと。ソリッズのこと。グランサイファーのこと。戦った時のこと。最近増えた団員のこと。依頼で出かけた先でのこと。昨日食べて美味しかった食べ物のこと。大きな魚を釣り上げたときのこと。
目が覚めてからもう一度話すこともあれば話さないこともあるだろうし、ここでしか言えない愚痴なんかをこっそり吐き出したりもしていた。
だからというわけではないが、目が覚めるまでの間に勝手に仲良くなったような気がしていた。
ラガッツォからしたら知る由もない話ではあるが、ランドルはその中で少しずつずっと考えていたのだ。
何も知らないこの少年が、何故ナビスに属して本当の父親でもない男を家族だと慕い、命を張ってまでその男の願いを叶えようとしていたのか。
考えても考えても昏々と眠るラガッツォのことなど、一つもわかるはずもないのに。
聞きたいことは山ほどあった。知りたいことも山ほどあった。面と向かって聞くには酷すぎることばかりで、結局何一つ聞けたことはない。
色々あったが晴れてラガッツォがグランサイファーに乗る一員となり、日々生活を送っていく中で分かったことはある。
最初のうちは必要以上に自室から出てこなかった。
生活を送る最低限のことや自らが参加する依頼があれば出歩いてはいたものの、他の場所で見かけることはほとんどなく、まだ見たことすらないと話す団員も多かった。食堂や浴場などの共有スペースを利用する際は、わざと人の少ない時間を選んでいたようだった。
罪悪感が強くほかの団員と顔を合わせ辛かったのは、かつては対立した関係にあったのだから当然かもしれない。
ラガッツォなりにこの騎空団について考えていたのだとランドルが知れたのは、それから数日たったある日。
ランドルに相談を持ち掛けたときのことだった。
その相談内容を聞き、ランドルは幾ばくか安心したのを覚えている。
馴染もうとする気持ちがあるのなら、いくらでも間に入り手助けすることを買って出た。
それから行動を共にする時間が増え、徐々にではあるがラガッツォもグランサイファーでの生活に慣れていったように見えた。
しかし、その頃からランドルは不可解な気持ちを抱えるようになっていた。
自分以外の誰かを頼るラガッツォを見ると、じわりと胸の中でインクが染みたように影が落ちる感覚。
交流が増えていくその姿を横で見て、慣れてきたのだということを確認するたびにそのインクの色は少しずつ濃くなり広がっていくように思えた。
じわり、じわり。最初は薄くほんのり暗さを感じる程度だったそれは、日に日に変化を続けていき落ち着かない。しまいにはっきりと胸が痛むようになった。
その不可解な気持ちを振り払うように、間に入り込み自らそれを済ませてしまう。
間に入ることまではかわらないが、ラガッツォが他の団員と交流するきっかけを奪う結果になっていた。
「なんかお前変だぞ」
「……あぁ、俺もそう思う」
「ハァ?」
早く馴染めるようにと思っていたのに、ラガッツォの顔見知りが増えるほど、声をかけられる回数が増えるほど、ランドルの中には見えない何かが少しずつ色を濃くして浸食していく。
何か悪いものでも食べたのか、どこか体調が悪いのか。
自分では答えにたどり着けないことならとティコのところにも行ったのだが、特別体に悪いところはないと言われ、解決はできなかった。
「んー……これは医者としてではなくて、個人的な勘のようなものだけど――」
そう話してくれた内容に、ランドルは正直納得がいかなかった。
「私はね、人は誰もが色んなものに執着を持って生きてると思ってるし。それが自分自身だったり他人だったり物だったり記憶だったり命だったりお金だったり、対象は異なるし度合も異なれば期間だって異なる。その執着は、愛情だったり憎悪だったり、保ちたいのか壊したいのか、執着の形も異なる。それでね、そのもやもやとかイライラみたいなのは、ランドルの中で新しい『執着』の形が生まれたんじゃないかなって思う。それを認めて向き合えるようになるかは、自分次第」
それがどんなものであっても、自分を形作る一つであることは、忘れないでほしいし。
そう言われてティコの医務室を後にした。
――俺が『執着』だって? あいつに? なんだそれは。
話したことと言われたことをまとめれば、ラガッツォがグランサイファーでの生活に馴染んでいくことに、ランドルがなんらかの執着心を持っているということになる。
何故? グランサイファーでの生活や仲間に、騎空士としての活動にラガッツォが馴染めるようにサポートを買って出たのではなかったか。
それなのに、それらが進むほど正体のわからないものに悩まされる結果となっているということだ。
意味不明だった。
そこに自分の中で広がる薄暗いインクの染みのようなざわつきや胸の痛みが、どう関係するというのか。
「わっけわかんねぇ」
ティコはそれ以上のヒントを与えてはくれなかったが、それを認めて向き合えるようになるかは自分次第だと言っていた。
つまりそれが何なのかは、自分自身に向き合って見つけなければならない。
結局自分で探し出さなければ、自身の心を染め行く何かを消し去ることはできないということだ。
悩むのは苦手だ。何も考えず、身体を鍛えることに集中する方がよっぽど楽だった。
余計に悩み事が増えただけだったかもしれないと思いながら、その原因となっている人物がいるであろう場所へと向かった。
少し奥まった場所にありながら日当たりのいい小さな談話室に向かえば、探していた人物――ラガッツォはぽかぽかとした日の光を浴びながら本を読んでいる。
日当たりがよく静かなこともあり、団内にいるネコが数匹好き好きに寝ていることもよくある場所だ。
誰が管理しているのかはわからないが簡易的な本棚が設置されていて、中身は定期的にラインナップが変えられながら「ご自由にお読みください」と小さな札が立っている。
そこには椅子とテーブルが少しばかりあるが、あまり人と会うこともない。
ラガッツォはそこが気に入っていたようで、見当たらないなと探せばこの場所にいることが多かった。
部屋に踏み入ったランドルの気配を感じたのか、視線を本に落としたままラガッツォは口を開く。
「なんだって?」
その声に反応して、ラガッツォの足元で丸まっていたネコが目を覚まし、ナァンと一つ返事をした。
ティコのところに出向いていたことは伝えてあったため、診断結果はどうだったのかと尋ねられる。
身体はいたって健康であり、問題は何一つ見つからなかった。
だからこそ悩むことが増えてしまったのだが。
向かい側の椅子にどかりと腰を下ろし、大げさに一つため息を吐き出した。
「俺が、お前に執着してるんだと」
「はっ、違いねェ」
ラガッツォは鼻で笑い、そんなことは知っていたと言いたげな返事を返す。
二人の間でネコがどちらの足にも絡みつくように頭をこすりつけ練り歩いているのをそのままに、まだ視線はランドルをとらえず手元に落としたまま。活字が並んでいる小さな本のページを1枚ぺらりとめくった。
「なんでだ?」
「俺が知るかよ」
「俺はお前の何に執着してる?」
机に肘をつき、前のめり気味に体を乗り出せば、ラガッツォは鬱陶しそうに顔をひく。ランドルに気圧されてしまい、やっと本から視線が外れちらりと横目でその声の主を見やる。
はぁ、と小さく息を吐き本にスピンを挟み閉じた。本を読むことをあきらめたようだ。
本を読むために気に入ったこの場所にいるにもかかわらず、ここにいるとほぼ必ずといって邪魔が入ることだけがこの場所の利用価値を下げているなと考えていた。
「だから、知るかよって!」
片肘を机に置き、そちら側へと体重を傾けさせれば、自然と二人の顔は近づいた。
しばしのにらみ合いのあと、再びラガッツォが口を開く。
「あー……まァ、子離れが出来ない? みたいなもんじゃねェか? 母性的な」
「母性!? 俺が!?」
大きな声に驚き、ネコは談話室の外へタタタッと走り去ってしまった。
ラガッツォは、あー……とそのネコの背中を見送り、手に持っていた本を机に置く。
ありえないと言いたげなランドルを正面から見据え、マジか……と小さく呟いた。
本当に何も理解出来ていないらしい世話焼き係に向きあい、座りなす。
「ママが大事な子供の世話を焼くことをやめられないなんて、よくある話だろ」
「誰がママだ。つーかママじゃねぇ」
「例え話だっつの。まァあれだ。俺は間違いなく、この艇に誘ってくれたフェザーや許可を下ろしてくれた団長には感謝してる。死んでもおかしくなかった俺を助けてくれたティコ先生にも、腕を作ってくれたエンジニア達にも。そのあともずっと面倒みてくれてるお前にはもっとだ。すげー感謝してるんだわ。でも、自分の時間を割いて面倒見るなんて、家族でもなきゃめんどくせェだけだろ」
感謝されたくてしていたことではなかったが、知り合いも少ない、ましてや敵対していた組織に加わるのだから味方になる人間は少しでも多い方がいいだろう、腕のこともあるし生活の補助くらいなら手伝えると勝手に名乗り出たにすぎない。
面倒くさいなんてことを思ったことは一度もなかった。
出来る人間がやる、持ちつ持たれつである。
そもそもラガッツォも面倒くさいことを要求してくるわけでもなく、ただ隣にいて生活を送っているだけの方が時間としては圧倒的に長い。
「でもまァ? ランドルママのおかげで? それなりに俺だって一人でやっていけるようになったんだわ。この腕だから一人じゃできねェことも勿論あるけどよ、もうお前にばっかり頼らなくてもいい頃合いかもなとは思ってんだ。巣立ちってやつ?」
もともと、団員ではない一人の少年が大怪我をしてティコの監視下で艇に乗っていることは、ほとんどの団員に念のため知らされていた。
だから、目を覚まして改めて団員として迎え入れられたあとも、目を覚ましたんだね、よかったねと、ラガッツォ自身が知らない顔見知りはやけに多かった。
ラガッツォからも顔見知りになれたのは最近ではあるが、気さくなフォローをしてくれる団員はとても多くなっていたのだ。
ランドルただ一人がその役割を背負う必要性も、そろそろなくなってきている。
それにも、ランドルは薄々気付いてはいた。
気付いていて、隣にいることを選んでいるのだ。
「…………だめだ」
「は?」
「それが無理だって話しだろ。お前話聞いてんのか」
「お前こそ聞いてんのかよ、せっかく自由な時間を増やしてやるって言ってんのに。そんなに俺の世話焼きてェのか?」
「っ、そうじゃねえ! 多分……」
「なんなんだよほんとによォ」
じわりじわり。広がる染みが胸を締め付ける。きゅうと心臓が痛むのに、身体に悪いところはないと言われた。
これが執着だというのなら、正体がわからないまま消えてほしいとさえ思う。
もやもやも心臓の痛みもいらいらも、何も感じなければ素直にラガッツォが置かれている環境への変化を喜べるのにと。
「わかんねぇから、聞いてんだろ……」
「だからァ……」
ふと、ラガッツォは何かを思い出し言葉を止めた。
それは別に今すぐ話をしなくてもよかったことではあるのだが、このまま話していても多分なんの解決にもならない。
わからないと聞かれたところで、ラガッツォにだってわからないのだから答えの出しようもなかった。
現にさっきからずっと堂々巡りだ。
ならば話題を変えるには最適と思われる言伝をランドルに伝える。
「そういえば、さっき団長がお前のこと探しに来たぞ」
「団長? なんだって?」
「古戦場に行くメンバーに指輪か耳飾り渡したいとか言ってたけど、行った方がいいんじゃね?」
ラガッツォにとってはまだ見ぬその戦場の話を、簡単に説明は受けた。
そこにランドルも一週間ほどついてきて貰いたいんだけどいいかな? と、グランから聞かれ、その決定権は自分にはないが、一人でももう問題ないという事は伝えておいた。
周りから見てもそこにいるのが当然かのように、ランドルが身の回りの世話をして見えているのは、ラガッツォにとっても少しばかり心苦しいところがある。
「子離れできるってんならちょうどいい機会じゃねェか、一週間離れていられりゃわかんだろ、執着してるかしてないかくらいは」
◇ ◇ ◇
そうして送り出された古戦場も、もうすぐ終焉のときを迎える。
執着がなんなのか見つけられたかといえば、相も変わらず「わからねぇ」が正しいのかもしれない。
自らが戦場に立っているとき、仲間のサポートをしているとき、戦法が見えず全員でデータ収集解析を進めているとき、そんな時はこの戦いの中に集中出来ていた。
少しでも多く自分を成長させるヒントが欲しいから、仲間やほかの騎空団の様子も何一つとして取りこぼさないように必死に見て、動いた。
身体を動かすことも、強い敵に挑むことも、ランドルにとってはなくてはならない大切な時間だ。
何か一つでもいい、強くなれたのならそれだけで十分な経験だった。
問題はそれ以外の時間だ。
食事中や寝る前一人になったとき、朝の身支度をしているときやストレッチやランニングで体を温めいるとき、ふと思い出してしまう。
目を覚ますまでの長い期間、目を覚ましてからこの場所にくるまでずっと、気にかけていた存在のことを。
最初こそ演技だったものの、世話を焼けばごめんなさいやありがとうございますと、素直に出てくる言葉たちに驚いた。
遠慮がちに立ちずさむその姿は、本当にあの男と同一人物なのかと疑うほどの変貌だった。
ごめんなさいなんて言葉はいらないと言えば、そこからはありがとうの言葉が増え、演技であったと明かされた後もそれは続いている。
仲間思いだという事もわかった。
たまに話すナビスにいた時のことや、騎空団の仲間へ向ける言葉の端々から、言葉はやや乱暴でありながらも世話焼きな性格なのが見て取れる。
口は悪くなったけれど。
それすら仕方のないやつだなと見守るのも、そんなに嫌いではなかった。
ちゃんと飯食えたかな、なんてことまで脳裏に浮かんだときは、これが母性ってやつか? と少し納得しかけてしまった。
ラガッツォのことを考えれば、その度につきりと胸は痛むし、じわりと染みる。今この瞬間、自分の知らないところで生きていることが、ほんの、少し……。
言葉にしようのないざわつきに、また胸がつきりつきりと痛んでじわりじわりと仄暗く陰る。
今まで感じたことのない異変は、なんといえば妥当なのだろう。
ティコの言う執着の形が、きちんと形作ればきっとすっきりするだろうと思うのに、まだ見ぬその形はふわふわでぐにゃぐにゃだ。
それなのにこれが新たな執着というものならば、あまりにも自分自身のなかに存在しすぎていることを実感させられていた。
こちらはお前が思っているよりもずっと長く長く話しかけていたんだ。ずっと意識の片隅に置いて、どうしても気になって離れなかったんだ。何をするにも付きまとうその気持ち、それはすでに生活の一部になっている。
それくらい、ただ長く長く。
「ずっと、あんだよなぁ」
ぎゅうと痛む胸のあたりを右手でさする。
ランドルがいなくても、ラガッツォが困ることは何一つないだろう。不本意だがフェザーに頼んできたし、それ以外にもフィオリトやティコにも声はかけておいた。
そんなことをしなくても、近くにランドルの姿がなければ誰でも不自由な瞬間に立ち会えばさりげなくフォローを入れてくれるはずだ。
いらんことをするなとラガッツォには怒られたが、その声は聞かないことにした。
自分自身が何も気にすることなく旅立つための準備の一つに過ぎなかったから。
それも結局意味はなかったかもしれないけれど。
何を準備したって、近くにいないことに変わりはない。こんなに自分の中で大きな存在になるとは思っていなかった。
それが今回離れてみて初めて知った自分の気持ちだった。
離れて触れられないから痛みは増していく。
自分の手の届く距離にと思う、その思考が怖かった。
「はぁ……」
――会いたい。
その言葉は口からこぼれることはなかったが、思った瞬間ぐわりと胸の染みが熱く溶けだしとろけていく。
どろりと広がり、ばくんばくんと心臓の音が聞こえそうになるほど跳ねている。
――なんだよ、それ。
これまでよりも強くきゅううと締め付けられ、呼吸すら奪われていくような感覚に陥る。
さすさすとそのあたりを撫でても、外からでは届かない。熱を持ち痛んでいるであろう場所は、もっと内側の深い部分にある。
「いってぇ」
ぎちぎちと締め上げられる心臓の痛み、これも気のせいなのだろうか。
ただ、確かにそこに「ある」ことはわかった。
ならば認めるしかないのかもしれない、そこに「ある」なにかを。
不確かなそれは、認めてもなおランドルの胸を締め付け染みを作り続けている。
服の上からがりがりと爪を立ててかきむしっても、どうしても触れられない。もどかしい場所。
「なぁ、シェロカルテ」
「ランドルさん、なんでしょう~」
「小型騎空艇の手配って頼めるか?」
「もちろんです~! ご希望の時間などございましたら、予約しておきますよ~」
「じゃあ……」
◇ ◇ ◇
朝早く、それとも夜遅くか。まだ他の団員のほとんどが寝ているであろううす暗い時間。空気もしんと動かず、寝ずの番をしている大人数人しか動いていない艇内は、いつもの賑やかな雰囲気とはがらりと顔を変えていた。
コンコンコン。
廊下に響かないように控えめにドアをノックすれば、部屋の主は暫くしてから、開いてる、とだけ返事を寄越す。
寝付くのが苦手で眠りも浅く、少しの物音で意識が浮上してしまうと以前話していた。だから、起こすことにした。自分の執着を見つけるために。
かちゃりと静かにドアをあければ、ベッドサイドの小さな明かりをつけて半身を起こし、ぼんやりと見ている顔が目に入る。
「…………常識って、知ってるか」
「まぁ、一応は」
ドアを閉じて部屋に踏み入ると、まだ覚醒しきれていない意識の中で、言いたい言葉の中から少しかすれた声が零れだす。
「知ってるなら今はねェだろ」
「悪いな。向こう終わってからすぐ団長に許可貰って戻ってきたから」
「ハァ? 一人で?」
「あぁ」
ラガッツォは頭の中いっぱいにクエスチョンマークを浮かべ、自分の寝ていたベッドへ腰を下ろしたランドルの行動を非難するように問う。
「わざわざァ? 何のためにだよ」
「さぁ?」
「ハァ?」
ますますわけがわからないといった声があがったが、言ってる本人もそれが何故なのかはきちんと理解してはいない。
顔を見れば何かわかるかと思ったものの、そういうものではなかったようだ。
ただ一週間ぶりに顔を合わせ、ぽかりと空いていた場所がぴたりと閉じたように感じていた。暖かくてやわらかくて、心地がいい。
じわりと胸の中に影を落としたような染みは、溶かされ混じり合いふにゃふにゃになっていく。色を変え形を変え、ふわふわと浮かんだように軽くなったようだ。
帰ってきたことを改めて実感できている気がしていた。
「執着が何かってのはわからなかったけどよ、俺がここにいたいんだってことはわかったし、それを認めてやることにした」
「ハァ……それに俺を巻き込むなよ」
「悪いけどそれは無理だ。巻き込まれてくれ。俺も諦めてきたから」
「俺の意思無視か」
「まぁ、そうなるな」
「お前のそのたまに強引なとこ、なんなんだよ」
すとんと下がったままセットされていない髪の毛にポンと手のひらを乗せ、わしゃわしゃと撫でれば、撫でんなと抗議の声があがり頭を振って手を振りほどかれる。
「すっきりしたらすげー眠くなってきたな。知ってるか? 小型騎空艇って飛ばすとすごい揺れるんだぜ」
お陰で一睡も出来てないんだ、そう言いながら靴を脱ぎ、ゴロンと一人用のベッドの隙間に寝ころべば、ラガッツォはぎょっとしたような声を上げる。
「おい、ここで寝んな。自分とこ戻れよ」
「やだよ、結構遠いんだぜ俺の部屋」
「じゃあここ来てねーで真っ直ぐ自分の部屋帰ればよかっただろうが、マジでなんなんだよ」
「もーうるせーな。早く寝ようぜ。まだ外暗いんだから。ほら、端寄れ。俺が落ちる」
「誰が起こしたんだ誰が」
やりとりを諦めたのか、ラガッツォは壁側に身を寄せ横になる。
それでもそれなりの体格をした少年二人が寝るにはやはり狭い。体を横に向け、やっとスペースを保つ。
腕の置き場が定まらなかったランドルがするりとラガッツォの腹周りに片腕を回すと、その体がビクリと少しはねた。
「おい」
「狭いんだからこれくらい仕方ないだろ」
「だァから部屋戻れって言ってんだよ。人のこと抱き枕にしてんな」
ラガッツォの小言を耳にしながら、くあぁと大きく欠伸をした。張りつめた空気の中にいた緊張感が一気に解けて、心地よい疲労感が眠気を誘う。
話したいことが沢山ある、起きたら古戦場でのことを話そう。それからそこで得たことも、手合わせで試したい。自分がいない間のことも、何も不具合はなかったか。少しは、物足りないと思っただろうか。
溢れ出るようなしたいことを確認しながら微睡んでいたが、腕の中の存在を確かめながら、ランドルは深い場所へと意識を落とした。
背後からすぅと寝入った吐息を確認し、ラガッツォはハァと一つ息をつく。
まだ夜も明ける前に帰ってこなければならない理由もわからないまま、自分の部屋に来て寝入ったこの男の存在に安堵を覚えたことを、ラガッツォはまだ意識していない。
ただ、ランドルの温もりを背中に感じながら朝が来るまでの短い間、いつもよりほんの少し深いところにまで寝入れた気がしたのだが……。
お互いに諦めて認めるしかない執着の名前を、今はまだ知らない。
◇ ◇ ◇
下野阿蘇の河原よ石踏まず
空ゆと来ぬよ汝がこころ告れ
出典:万葉集 第14巻 3425番歌
現代語訳:
早く君に会いたくて 空を飛んできたんだ
君の心を聞かせてよ
参考文献:Contemporary Remix “万葉集” LOVE SONGS Side. A